子どもたちの未来のために

<< 「子どもたちの未来のために」の目次に戻る >>

体育は「こころ」と「からだ」を育てます

新指導要領改訂以前から「ゆとり教育」の「ゆとり」の意味も分からない子どもたちに、ゆとりが及ぼす弊害が危惧されてきた。当然ながら現在、軌道修正がかけられている。「自主・自ら・進んで」「考える・創造性・創意工夫」などの美辞麗句でびっしり埋められてはいるが、ではどうすればその様な力が付くのか?などの具体案は記されていない。

現実に起こったことは、学習内容の3割削減。授業時間の1割削減。という全くの矛盾施策。それで子らの能力をあげなさい。→やり方は先生次第ですよ。「自由」という言葉の響きだけがいかにも美しい姿かの様に、ねじ曲げられて流布され続けてしまった。

現在の混乱は、必然の帰結とも言える。昔から「事にあたっては狭き門から入れ」という。直に言えば、苦しいことは先にやって後で楽しめばいいじゃないか。幼い頃読んだ絵本の「アリとキリギリス」ならアリの方が良いじゃないか。小さいうちだからこそ可能性は誰にでも大きく開かれているし、頑張り甲斐がある。誰であろうと「克服の努力」を避けることは出来ない。このスポーツクラブの場での、学びながら障害をひとつずつ乗り越えていく、その努力は、そのまま「こころ」の中で将来に向かう自己成長力の方向へと彼らの精神を構成していきます。

今後の生活に必要な力を養っていくには、学業だけでなく、身体を通じて学ぶことにより、生活に応じた知恵は多く養えるのです。むろん、学業よりも身をもって経験・体験したことは、将来の大きな財産となり、実社会の中で役立つことが多いのです。

抵抗に対して克服の努力をするその精神は、今後子供だちの最も重要な生きる為の根幹をなすバックボーンとなっていくことでしょう。

当クラブの目指しているのは「体育指導が良いから子供が体育を好きになり、良く出来るようになって、頑張りがきき、真っ直ぐに育つ」というこだわりです。むろん教育効果を求めますから、集団的規則、社会的マナーなど、社会性の素地形成やおおよそ人が育つ過程の中で不可欠と言われるものばかりに偏重し、この教育つまり人間形成の大前提がないがしろにされているのが実状です。教育とは単なる知識の詰め込みではなく「人間をつくる」という観点が含まれます。結局、社会への適応力を身に付けさせてゆくことの方が、子供たちの生きる力の助けになると考えます。必要とされる発達上の課題それぞれを少しずつ克服してゆくことが、やがて年齢相応の力を発揮することにつながります。

将来「やっておいて良かった」「役に立った」「あの時があるからこそ今がある」そんな体育の授業(指導)を理想としています。なぜなら教育は「将来を踏まえて」行われるものだから……。

<< 「子どもたちの未来のために」の目次に戻る >>